【創作】電車、女の歌を聴く【掌編】

女がむせび泣くように歌っている。

イヤホンの小さな穴から鼓膜へ注がれる振動に集中していたはずの私は、ふと目を開いた。

静まりかえった暗闇が一転し、視界を色と輪郭が占拠する。途端に流れ込む朝の通勤電車の雑音に、女の声が弱気に薄まっていく。電車が線路の上を跳ねたときの重く単調な揺れ、裏声に近い高い声の録音アナウンス、小さいがせわしないささやき声、衣擦れの音、抑えきれなかった空咳、漏れ出した音楽、大きく吐き出された息。

さっきまで世界で一番自分が不幸だと声を張り上げて訴えていた女は、車内を埋め尽くす肩と肩の間に隠れるように細々と遠慮がちに歌う。

私は悲しい。きっと他にも悲しい人はいるのだろう。でも私が悲しんでいるということも知って欲しい。

 

アナウンスと共に空気の抜ける音がして扉が開いた。横顔の群れが一斉に同じ方向へ流れていく。誰もがその顔の先にしか興味が無い、それをいいことに私は彼らを不躾に観察する。誰の顔も無表情、あるいは不機嫌に見える。彼らの大多数はこれから仕事に行く人たちのはずだから、皆にこんな顔をさせるほど、仕事というやつはよほど苦痛でつまらないものなのだろう。

 

私は疑う。彼らはひとりひとり、何らかの不幸と何らかの幸福を負って日々を生きている、ありきたりの人間のはずだ。しかし私には彼らの表情が、歪んで涙をこぼすところも、やわらかにほぐれて笑むところも、ちっとも想像ができはしない。これから向かう職場で、胸の内で轟々ととどろく不満を押し殺してパソコンに向かうのだろうか。隣の席の同僚と美味しいお店の話をして笑い声を上げるのだろうか。そうして一日働いた後は、うちに帰って家族と食卓を囲み、頬の筋肉を緩めるのだろうか。あるいは一人部屋に閉じこもって、孤高の世界へ逃げ込むのだろうか。私には彼らの心ある振る舞いを思い浮かべることができない。彼らは電車に吸い込まれて吐き出されるだけの、柔らかい歩く棒にしか見えない。

 

電車の扉が両側から迫り、彼らの後頭部と私の貧しい妄想の間を切断する。私は再び目を閉じた。この都市を血管のように廻るレールの上でぐるぐる運ばれる夥しい数の人生について想像したわずかな事柄を、私は意識から消去する。

女がむせび泣くように歌っている。

私は女の悲しみを聴く。女の歌う架空の人生が、私のがらんどうの頭蓋骨を反響する。その感覚だけを味わって、思考を溶かすように放棄した。

 

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創作です。自分のことじゃないです。電車の中でこんな性格悪いこと考えてないです。