ビニール傘と一緒に雨を見上げる

今週のお題「傘」

 

長い傘はビニール傘しか使わない主義である。

 

なにせすぐに失くしてしまうのだ。雨がやんだ後、店の傘立てに置きっ放し。電車の一番端の席に座って、手すりにぶらさげたまま。酷いのは大型複合施設でさんざんお店を回った後、いつの間にか手から消えていたことがあった。来た道を逆に回り、雑貨屋の棚に立てかけていたのを発見した。そういえば、そこの商品を手に取って見たような…傘を置いたという意識すらさっぱり無かった。

ADHDの面目躍如である。何度も繰り返せばさすがに懲りるしかない。そんなわけで失くしても惜しくない、安いビニールを使い回すと心に決め、もう十数年。

雑誌やおしゃれライフスタイル情報サイトは「大人の女性がビニール傘なんてみっともない!こだわりの素敵な傘をさしましょう!」と煽ってくる。いつもならそういうのを鵜呑みにしてしまいがちな私だが、傘に限っては揺らがない。

私はもうビニール傘の魅力にめろめろなのだから。

 

ビニール傘にもいろいろあるが、私は必ず透明なものを選ぶ。(最近のコンビニ傘は不透明なのが多くて、ちょっと困っている。)

なにせ傘越しに周囲が見渡せる。ただでさえ不注意で鈍くさい私には、視界が遮られないということで得られる安心感は大きい。激しい雨の日に、頭をすっぽり傘に潜り込ませても大丈夫!

そして明るい。ビニール傘に慣れてしまうと、久しぶりに布の傘をさした際、大きな影にすっぽりと覆われてしまい、その暗さに驚いてしまう。

さらに何より一番気に入っているのは、雨が降ってくる様子を、真下からたっぷり堪能できることだ。

 

雨の日は交差点で信号に引っかかるのが楽しみになる。待っている間、私は空を見上げ、雨粒がビニールにテン、テン、と跳ねる音にうっとりしながら、鈍色の空からすぅっと落ちてくる雨粒に目をこらしている。

高い空から私の傘まで降りてくる一滴。どこかの海から上昇し雲になり、風に流れて運ばれて、私の暮らす町までやってきた。そこで満を持して落下する。私の傘へ向かって。一粒、そしてまた一粒。次々と絶え間なく注がれる。高いところでは細い線にしか見えないものが、次の瞬間にはビニールの上で水滴となって弾け、バラバラに散らばって傘の斜面を滑り落ちていく。途中で他の水滴と合わさって流れる水となって形をなくし、傘の骨の先についたプラスチックから垂れるときに、また滴という形に戻る。重力に逆らうようにふるりと揺れて、すぐに離れて落ちていく。

落ちた先の地面では排水溝に向かう小さな川へ合流し、その後はきっと、地面の下をくぐり抜けて、もっと大きな河へ出るのだろう。そして流れ流れて海に出て、また空へ昇り、雲になり、どこかに降る雨となるのだろう。

 

滴を見る余裕すらない、ザザ降りの豪雨もいい。自分が雨の中に閉じ込められているかのような。激しい雨でもビニール傘はちゃんと遮ってくれる。(まあ体の下の方はびしょ濡れになるんだけど)。傘を叩いて跳ね返る滴を、ちょっと余裕な気分で見返したりしてみる。雨の音に包まれて、自分もその一部になったかのような気分になる。身体の境界が溶けて、湿った空気の一部になり、私の中を雨が通過していくような心地に。

 

 

鞄の中には折りたたみ傘を常備していて、そちらを使うことも多いのだけれど、今日は朝から雨だ~、あるいは折りたたみでは厳しい激しい雨になりそうだ、という日には、濡れながら歩かなければいけない面倒くささ半分、ビニール傘の出番だ!という楽しみ半分で、玄関に立てかけてあるビニール傘を手に取る。

その時一緒に手にするのは、満員電車の中で濡れた傘をどうしよう、という問題から導入した傘ケースだ。とても便利で、傘をささない間はこれに入れておけば肩にかけて持ち運ぶことができる。手に持っている物は必ず失くす私だが、これのおかげで傘を忘れることはなくなった。

…傘を失くさなくなったということは、ちょっとお高いおしゃれな傘を買うのもありなんじゃない?

ちらっとそんな考えが頭をよぎるが、いやいや、ビニール傘の楽しみを知ってしまった私には、大人ぶった見栄なんかより、雨を堪能するひとときの方が断然価値が大きい。そんなわけで今年もビニール傘が同行者として大活躍してくれる、うっとおしいながらも、ちょっぴり楽しみな時期がきた。