人間がプライドに縋るとき

「もう役所には行きたくない」生活保護申請の現場で絶望する困窮者たち|「引きこもり」するオトナたち|ダイヤモンド・オンライン

この記事に、下のようなはてブをつけたら、いくつか星がもらえた(ありがとうございます)。

プライド捨てろとか言ってる人がいるけど、追い詰められた状況だからこそプライドが必要なんじゃね?受けたら人間扱いされない「保護」なんて、何を守ってんだか。

 ただ、この文章を書き込みながら、「プライドの定義やイメージって、人によって違うよな…」と我ながら戸惑いがあった。

 

『プライド』という単語を「現実に即していない肥大した自尊心」というネガティブなイメージで捉えてる人もいるんじゃないだろうか。本来は単なる主観的な『自尊心』というだけで、誰の心にも生じるし、またあらゆることを対象にする(仕事に対するプライドといっても、営業のテクニックに自信があるとか、プログラムが得意だとかバリエーションは無限にある)。

 

私にとって『プライド』とは、「これならできる」「これはやりたくない」という自己評価をちょっと強めた、「これをしなければ私ではない」「これをやってしまったら私ではない」という、自己に対する定義、という感じだ。「自分らしさ」を意識的に実行するたものもの、といったところだろうか。

 しかし、定義に捕らわれて本来の自分を見失って、逆に「自分らしさ」を発揮できないのでは本末転倒だろう。そういう状況にある時、他人はその人を指してこう言う。

「あの人はプライドが高いから」

日常でプライドという単語が最もよく使われるのがそういうネガティブな発言の中だから、『プライド』という単語には悪いイメージがついてしまっているように思う。

 

そもそも、人間って、自分で思っているほど自分を知らない生き物だ。考えた通りに行動できないことなどままあるし、自分でも信じられないほどの失態を犯して後悔する時があるし、逆に上手く振る舞えて自分を見直す時もある。

みんなその都度、そうやって自分自身を少しずつ見直して、自己評価や『プライド』に変更・修正を加えていくことで、それらと自分らしさの乖離を防いでいるのではないだろうか。そしてうっかり乖離を放置していると、「プライドが高い」との誹りを受ける。

 

では『プライド』が自分の意思や行動によって調整されるものなら、じゃあ逆に『プライド』が意思や行動に影響を与えるのはどういう状況だろう。「自分らしさ」を意識的に実行する必要のあるときとは。

私たちは日常生活の中で、いちいち『プライド』を参考に行動してはいないだろう。『プライド』を強く意識する時、それは何かに追い詰められた時ではないだろうか。特に精神が過度のストレスにさらされたとき、それに嫌でも対応しなければならないとき、人は自分の心を守るため、そのとき取り得る最も「自分らしい」行動をとろうとして『プライド』を参照するのではないだろうか。

 

上のリンクの記事は、生命を脅かされるほどの生活苦に追い詰められ、生活保護を受けようとしたが、その窓口で『プライド』を傷つけられ、受給できずにあきらめた人たちの話だ。

 ここまでの『プライド』の解釈によると、記事に出てきた人たちは追い詰められたからこそ、『プライド』にのっとった行動をするのだ、と言える。

 

 それ対して「プライド捨てろよ」という人は、彼らの『プライド』が、「自分らしさと乖離した」「現実に即していない肥大した自尊心」と思っているのだろう。

その根本には「おまえたちは施しを受ける人間なのだ。そして役所や、税金を払っている自分たちは施す側の人間だ。だから否定や非難は甘んじて受け入れろ」という考えがあるんではなかろうか。

 

しかし生活保護は、『施し』ではなく『保障』だ。「施す」「施される」の関係はそこになく、役所で対応する人も、税金を払う人も、生活保護を受ける人も、みんな対等な人間であるはずだ。

だから、生活保護を受けるために対等な人間として扱われないことが、彼らの『プライド』を傷つけ、それを避けるのは、彼らの「自分らしさ」を守る当然の自己防御なのではないだろうか。

 

きっと、ただ死なずに生きていくだけなら、人間はどこまでも墜ちてゆくことができる。

でも、この世に生を受けたからには幸福になりたいと願うのなら、そこには最低限の「自分らしさ」が必要で、それを守るために『プライド』が必要なのではないかと私は思うのだ。