私がブログを再開したのはコロナウイルスのせいだという話

 6年ぶりの投稿になる。

 このブログが残っていることに気づいたのは、先週ちょっと思うところあって増田に書き込みをした時のことだ。いつもはスマホはてブしか使わないもんだから、はてなにログインしたのは数年振りだった。表示された「使っているサービス」一覧にブログがあることに気づいた瞬間、変な声が出た。そういえば書いてたわー。三日坊主ブログやっちまってたわー。

 

 

 

 さて、コロナウイルスで私の住んでいる都内は自粛モードとなって一ヶ月以上が過ぎている。しかも私ときたら、去年末にうつが悪化して仕事を辞め、2ヶ月をほぼベッドの上で過ごし、3月になってようやく近所を散歩する余裕が出てきたと思ったらこの有様だ。

 少しずつ外出を増やして体力をつけよう、まずは人混みの中に出て行くことから社会復帰しよう、という計画も台無し。何より、休みが5日間あっても寝て過ごす引きこもり体質の私ですら、4ヶ月も他人とコミュニケーションをとらない状況に耐えられなくなった。誰でもいいから会って話したい!

 

 その上、こんな時に転職活動(もう無職なので転職というと違和感ある)を開始せざるを得なくなった。貯金はもう残り少ない。失業手当は申請が郵送となり、いつになったら口座に振り込まれるのか謎である。うつの症状は軽くなったものの、体力が底まで落ちている状態でも、次の仕事を探さねばならない。

 

 これは人生詰んだかもしれん。

 

 ガチでそう思った。いや今も思っている。何せ仕事はまだ決まっていない。同時に笑いがこみ上げた。いやもうこれどうしようもないよね。世界的危機だもんな。うつと診断されたときも、仕事を辞めたときも「詰んだ」と思ったけど、「私がもっと頑張ればどうにかなったんじゃないの?」という自己責任の理論が適用され、自己嫌悪でただ苦しむだけだった。

 しかし世界規模の感染症に巻き込まれてしまうと、もう開き直るしかない。不謹慎かもしれないが、コロナウイルスのおかげで吹っ切れて転職活動を開始することができた。

 

 

 予想通り、転職活動は苦しい。前職に引き続き希望していたデータ分析のサポート(多量データの処理とか加工とか整形とか、統計知識いらない集計とかいう仕事)みたいな募集は見当たらない。その上のデータサイエンティストがまず枯渇しており、そっちの募集は多いものの、私では到底実力不足だ。さらに理系の新卒が続々とその道を目指しているため、データ分析周辺の業務は彼らのOJTに割り当てられ、私のような将来の成長が見込めない40歳のおばちゃんのつけいる隙はないのである。

 書類選考を50社送って45社には断られる。ようやく進んだ面接への不安と緊張で、うつで弱った心が軋む。日程調整が被る。内定出すと言った会社から二次面接の日程がなかなかこない。

 きつい。むり。もうだめだ。元々貧弱なところを、うつでぺしゃんこに潰された精神が悲鳴を上げる。

 

 しかし退職後の4ヶ月間(体調が悪かった最初の数週間分は記憶が飛んでいるが)に、学習したことがひとつあった。こういうときには、何か他のことで気を紛らわせるに限る。しかも人間相手なら効果は大きい。(学習したと言うよりは、前から知っていた手段をやっと実行できることができるようになり、その効果を実感した、と言うべきか)

 まずは非常に数少ない友人・知人にLINEしまくった。とはいえこの鬱憤のすべてをそのままに吐き出して、相手に負担をかけるわけにはいかないという自覚はある。なのでもっと他に、いくらでも好きなだけ吐き出せる対象を探した。

 というわけで、はてブでコメントを書きまくった。はてブのランキング・Yahoo・NHK…目につくタイトルを片っ端から読み、思うところがあればとにかくブクマしてコメントを書く。ブックマークなのだから当然、記事に関連したコメントを書き込むのだが、自分の考えを書くだけでも心が落ち着いたし、人目につくところに置いておくだけで誰かとコミュニケーションが取れているような気になれた。幸い、ぽつぽつとスターをくれる人もいた。元記事にからめて愚痴を吐露したコメントで、ビビるほど星がをもらってしまったりした。

 

 それでも足りない時がある。夜中に目が覚めたとき、朝起きた瞬間、数少ない面接の日程がバッティングして調整に頭を抱えるとき、企業からの連絡を待つ間、不安に胸の内が煮え立ち、じっとしていられないのに、何も手につかない。ひたすらベッドの上で悶えのたうち、呻き声や不穏な言葉が口から漏れる(アパートの隣の住人、本当にごめんなさい)。外に飛び出したいが、不要不急の外出自粛を呼びかけられている今、それも難しい。店も図書館も閉まっているから行く場所もない。第一、自分が感染するのはいいとしても、他人への感染源にはなりたくないと思えば、自粛に応じざるを得ない。

 しょうがないから、googleで「しにたい」「どうやって生きていったらいいのかわからない」などと検索してみる。我ながらアホなことをやってんなと自嘲しながら。何度も検索しているから、今では上位タイトルにはたいてい見覚えがある。

 検索されたリンク先は「自殺する勇気があるなら他のことやれ!」的な内容も多く、溜め息をつきながら戻るボタンを押すことになるのだが、ときどき、弱り切った心がぐっと掴まれるような記事やブログに辿り着くことがあった。

 

 そこに書かれている、他の誰かの人生の、苦しみとわずかな救いの物語を貪るように読みふけっているうちに、「私ももっと書きたい!」という気持ちが燃え上がってしまった。

 

 私は元々、小説家になりたかった人間である。文章を書くことは大好きだ(上手いとは言えない)。だがうつに苦しんだこの数年間は、まったく書く気が失せていた。書きたいという願望もなければ、文章にする内容もこれっぽっちも浮かんでこない。私から「書く」ことに対する情熱は失われた物だと思っていた。

 それが今更、再燃してしまった。頭の中に次々と文章が紡がれる(混沌とした雑念に過ぎず、実際こうしてブログ用に清書するのが一苦労なのだが)。誰にも見て貰えないのはしかたないけど、それでも書きたい。

 

 そうやって書いたものを、今こうして晒している。

 

 いやいや、それってコロナウイルスのせいか?と自問自答してみるが、こいつに「人生詰んだ」というところまで追い詰められ、外出をする等の他の手段を軒並み封じられ、嫌でも自分の内面に向きあう時間が増えたせいで、うっかり「書く」喜びに帰ってきてしまったのである。そう考えると、やっぱりこんなゴミみたいなブログを再開してしまったのは、やっぱりコロナウイルスのせいだ。

 これを書いたことで自分の気が楽になるのか、それとも後悔で撃沈することになるのかはわからない。ただ不思議なもんだとは感じている。つい4・5ヶ月前、私は自分が死ぬと思っていたのだ。自分の持っているすべての物を処分して。それがこうして恥を晒して、何かを遺すような真似をしている。

 ブログを書くにあたり、過去記事ごとブログ全部削除して新しく始める、という手もあった。2ヶ月前の自分なら、間違いなく過去の記事は読まずにそのまま消していた。でも今は、6年前の自分の投稿を「確かにこっぱずかしいし、無様だけど、それなりに頑張って生きようとしてたんだな」と振り返ることができる。

 

 やっぱりなんだか、コロナウイルス前の私とは大きな変化があったようだ。それが具体的に何なのか、渦中にある今はまだ答えが出せないけれど。後で振り返ったとき「ああ、こういうことだったのかな」と思いを馳せることができるようになるまで、このブログを書き続けていられればいいな、と思っている。